祝福





 おかあさん、と18号を呼ぶ子供の声は、溶け残った砂糖のようだった。
 18号はビーチチェアに腰掛けていた。子供に呼ばれて目を開けるまで、ぷっつりと意識が途絶えていた。その空白がほんの数秒だったのか、それとも一時間だったのか、18号には判別できなかった。
 頬よりも温度の低い潮風が、18号の髪を巻き上げた。頭の底に残っていた眠気は、それでいくらかすっきりした。
 18号は組んでいた腕と脚を解き、背中をまっすぐにした。ビーチチェアの傍らを見た。
 鳥の羽根を集めたようなヤシの葉陰の中に、小さな女の子が立っていた。左右に分けた髪の根元を、蝶々結びにした赤いリボンでくくっていた。リボンの色はジャンバースカートとお揃いだった。
 髪の色は母親に、鼻の高さは父親に、目の形は両方に似ていた。
「これひろったの」
 子供は息を弾ませて、砂まみれの両手を母親に突き出した。仔犬の前脚に似た腕から、海水がぽたぽたと落ちた。
 18号は子供の拾得物よりも先に、その有様を観察した。ジャンバースカートの前身ごろは胸まで海水が染み込んで、子供の胴にまとわりついている。
 やれやれ、と、18号は肩を竦めた。
 一体なんだって子供ってやつは、毎日毎日、こうも誇らしげに服を汚してくるのだろう。
 18号はビーチチェアから足を下ろし、子供の腕をとった。濡れた腕がすぐ乾きそうなほど、その皮膚の温度は高かった。肘まで付いた砂の粒は、海水が接着剤の代わりになって、なかなか落ちなかった。
 無理に払い落とそうとして諦めた18号は、子供にシャワーを浴びさせる事を考えながら、改めて拾得物を見た。それは、二段に螺旋(らせん)を巻いた貝殻だった。
 ふっくらとした貝の下半分に、目を凝らしてみてようやく分かる程度の、淡い斑点模様が散らばっていた。緩やかな曲線の傾斜は、巻き上がるにつれて急になり、てっぺんは、たった今、海の泡から千切ってきたばかりのように、くるりと渦を巻いていた。
 18号は小さな掌から貝殻を受け取ると、裏返して入口を覗いた。空き家になった貝の内側に、白い砂がついていた。見事な螺旋を形作る殻は薄く、18号の手の中でひんやりとした感触を保ち続けていた。
「きれいだね」
 入道雲と同じ色の貝殻を見ながら、18号はありのままの感想を述べた。
「ヤドカリが棲んでいたのかもな」
「やどかりさん、どこかにいっちゃったの?」
 引っ越したんだよ、と、首をかしげる子供に言った。
「体が成長して大きくなると今の貝殻が狭くなる。だから、もっと大きな貝を探して、そっちに移り棲むのさ」
「マーロンも、おおきくなったら、もっとおおきなおうちにひっこすの?」
「引っ越さないよ」
18号は首を振った。「好きな奴でもできたら別だけどね」
「あのね、マーロンね、おとうさんとおかあさんとおじいちゃんと、あとね、かめさんがすき」
 私と一緒だね、と呟きながら、18号は子供の髪をなでた。
 夏の花のような笑みでそれに答えた子供は「やどかりさんのおうち、あっちにいっぱいあるの」と、真後ろに腕を伸ばして渚を示した。
「あのね、おみずにうまってるの」
 嬉々として報告する子供の足はむき出しだった。太い足の先に生えた柔らかい爪が、不安定に芝生を踏んでいる。
 18号は正面の砂地を目で探した。子供が残してきた足跡の途中に、小さなサンダルが一つ、仰向けに転がっていた。
「かたっぽはどうしたんだい?」
 母親に聞かれて、子供は足元を見た。鮮やかな鱗を並べた魚を追いかけたり、波打ち際にしゃがんで砂を掘り返したりするのに夢中で、脱げたサンダルに気がつかなかったらしい。
 18号は海を凝視した。水平線まで続く海原の一部は、光の帝国のようにぎらぎらと輝いていた。
 程なくしてデッキチェアーから腰を上げると、18号は黙って木陰を出た。庭の芝生を横切って、まず片方のサンダルを拾い上げた。そのまま砂浜へ降りた。
 波の届かない場所で外履きを脱ぎ、ジーンズの裾を折り曲げた。砂浜の上で太陽が踊って、18号の視界を点滅させた。
 日差しに温められた透明な水に素足を浸して、海に入った。そのまま二、三歩進み、波に漂って行きつ戻りつするサンダルを掴んだ。
 砂浜に引き返し、サンダルを振って水を切る18号に、子供が走り寄った。18号は娘の前に屈んで両足にサンダルを履かせた。
「もう失くすんじゃないよ」
 静かに言い聞かせると、子供はこっくりと頷いた。
 買い出し行ってきます、と、家の窓からクリリンの声が聞こえた。
 カメハウスの窓はいつも開いていた。初めの頃は不用心に思えたが、窓を閉め切ったまま生活するなど、今では考えられない。
 玄関の網戸が開いて、縞のシャツと、膝よりやや短めの半ズボンを穿いたクリリンが出てきた。
「ついでにな、本屋で『うっふんパラダイス』の最新刊をゲットしてきてくれんか」
 亀仙人が、リビングからクリリンを呼び止めた。
 たまにはご自分で買ってくださいよ、とクリリンは断った。
「おれが読むと思われるじゃないですか」
「なにを言うか。おぬしだって、後でこっそり読むんじゃろうが」
 俗な口振りで続けた老人の顔色が、海よりも青くなった。外にいた18号と目が合った。
「あら18号ちゃん」
 芝居がかった声の相手を振り返ったクリリンは、氷の視線を浴びて固まった。
「どうでもいいけど、マーロンには見せないようにな」
 もちろんですとも、と揉み手をした亀仙人は「こりゃ分かったかクリリン」と弟子を一喝して、早々に室内に引っ込んだ。
 町に行く父親を発見した子供が、砂遊びを中断して家に走ってきた。
「スカートびしょ濡れじゃないか」
 玄関ポーチの階段を上って駆け寄る子供を、クリリンがとがめた。
「後でシャワーに入れるよ」18号が言った。
「あのね、マーロンね、いちごガムがいい」
 父親のズボンを握っておねだりした。父親が買って帰るお菓子を、子供は楽しみにしているのだった。
「寝る前にちゃんと歯を磨くって、約束できるか?」
 勢いよく子供が頷くと、左右の髪が尻尾のように飛び跳ねた。
「分かった。いちごのガム買ってくるから、おかあさんとお留守番してるんだぞ」
 薄く開いた網戸から、亀仙人が頭を覗かせた。18号をはばかって、小声で付け加えた。
「わしのお土産も忘れんようにな」
 覚えてたら買ってきます、と無愛想に返事をしたクリリンは、庭に出て砂浜に立った。海を向いて飛行機のカプセルを投げようとした時、18号がクリリンの隣に歩み寄った。
「なんか買う物でもあるのか?」
 ないよ、と、18号は神妙な雰囲気で首を振った。
「どうしたんだよ、変な顔して」
「不思議なんだ」
 なにが、とおうむ返しに問う夫に、何もかも、と答えた。
「何もかもだ」
 答えになっていない答を得ようと、彼は自分よりも高い位置にある妻の横顔を見た。
 しっとりした肌の色も整った顔立ちも、初めてカメハウスに来た時のままだ。彫りの深い目を縁取るまつ毛は、彼女の硬質な美しさをより強めている。
 18号の美貌に驚く人々は、彼女が子持ちだと知ると二度びっくりする。それはクリリンの自慢であり、また、密かな不安でもあった。言うと怒られるから言わないが、互いの釣り合いを考えると、今でも不思議に思う。
 そうだな、とクリリンが相槌を打った。
「おれもだよ」
 太い指が、逡巡するように二人の間を漂って、おずおずと18号の手をかすめた。
 18号はクリリンの指を乱暴に捕らえ、自分の指に絡ませた。標準よりも小さい掌が密着すると、その体温は子供以上に熱かった。
 きれいな唇が動いて、喉を詰まらせたような短い声が洩れた。クリリンは改めて18号を見た。18号は笑っていた。
「おまえのその、妙に図々しいところが好きだよ」
 図々しい、と評されたクリリンは、苦笑してうなじを掻いた。
 二人はしばらくそうしていた。それから素早く手を離し、クリリンはカプセルを海に放り投げた。音と煙が辺りを覆った。カプセルは小型飛行機に変形した。
 クリリンは、コックピットの扉を開け、狭い操縦席に乗り込んだ。
「なんか要る物あるか?」
「ないよ」
 18号は再び言った。おみやげわすれないでね、と、玄関ポーチのひさしから子供が叫んだ。
 オッケー、と返事をして、クリリンは扉を閉めた。
 目玉焼きのような孤島を飛び立った飛行機に、子供が地上から手を振った。


(了)


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